東京閑〜とん☆ちん☆かん〜日記

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みんな?かつて?

高橋源一郎さんのツイートをフォローしているんですが
昨夜は堀江敏幸さんの『なずな』という小説を読まれ感じられたことを
つぶやいていらっしゃいました。

その小説というのは、独身男性である「私」が
生まれたばかりの、弟夫婦の娘「なずな」を育てることになり
育てながら少しずつ変わっていく「私」の思いが描かれた小説だと言うことですが、
私自身はまだ読んだことはありません。

高橋さんのツイートはこんな風に締めくくられています

「(前略)…ぼくもまた、一日中、子どもを見つめている。
そんなに熱心に他人を見ることは、ほかにはない。
おそらく、恋愛がもっとも燃え上がっている時の恋人を見る時以外に、
そんな風に見ることはないだろう。
そのような視線だけが「いること」を確認できるのである。

だが、とぼくは思う。ぼくたちは、みんな、かつて、
その視線で見つめられた経験があるのだ。
ずっと昔、親たちは、ぼくたちを、
「こんなにも だいじに まもられている」ものとして、
激しく見つめてくれていたのである。
自分よりもずっと大切な、唯一の存在として。」

…みんな?かつて?

そうかなぁ? そうだったのかなぁ?

私自身は、正直あまりそんな風には感じられなかったし、
いまも感じられずにいる。

週休2日なんて海の向こうのお話だった時代
あんなに働いてたのに さして裕福でもなく、
3人の子どもを抱えて 大変だったんだろうな…

大人になって、そういう生活の苦労みたいなものに関しては
理解や同情もできるようになったし 育ててくれたことに感謝もしている

だけど あの時代 子どもが当たり前にたくさんいた時代
鍵っ子、なんて言葉が流行語のように言われていた時代
狭い家の中では すぐジャマにされて
「外に行って遊んでなさい!」と言われるような時代に
1日中、子どもをそんな視線で見ていられる余裕のある親が
一体どれだけいただろう? と 私なんかは思ってしまうのだ

お父さんが銀行員や公務員で お母さんが専業主婦で
畑とヤブばかりのウチの周りなんかよりは
ちょっと品のいい住宅街に庭つきの家と自家用車があって、
子どもにはそれぞれ個室が与えられている
遊びにいくとお母さんがお菓子と紅茶を出してくれる
そんな家庭だけなんじゃないのか?

それともそんなことは関係なく
我が家固有の問題だったんだろうか?
私個人の感受性の問題だろうか? それは中年になったいまもわからない

すぐ上の年子の兄が手がかかり 赤ん坊の私にいたずらもするので
私は押し入れの布団の上や、2段ベッドの上に寝かされていたという。
 気がついたら大きくなってたのよ、この子は。
いつか母がオットにそんなことを言うのを聞いたことがある。
 泣きもせず 目だけぎょろぎょろさせて

そうだなぁ そうかも知れない
いっぱいいっぱいに見える大人たちを前に
誰のジャマにもならないよう
ひっそりと生きるクセみたいなものはついた
いるのかいないのかわからない、とよく言われたし
いまも時々言われる 「あ、びっくりした いたの?」

誰からも見つめられず 自分がどんどん透明になっていくような気がした


まあそれはそれで 誰かに迷惑かけるわけじゃなし
気楽でいいやと思えなくもない ただ

不妊治療してまで 子どもという存在を得ようとしたのは
自分もかつてこのように 愛されていたと、身で心で 実感したかったんだろうと思う。

だけど 得たら得たで、子どもを愛せない自分に悩む親になっていたかもしれない。
結局自分が育てられたようにしか、子どもも育てられない そんな説もあるし。

ネグレクトとか虐待とか ワーキングプアとか
最近の問題みたいに言われてるけど 昔からそこらじゅうであったと思う
当事者が 自分たちの状況を理解したり 説明する言葉や概念を持たなかっただけの話なんだ

たとえば 父は直接的には過労で死んだと、私たち家族は思っているけど
私が子どもだったあの当時 過労死なんて言葉はなかった

そこら中に蔓延している混沌から 誰かが抜き出して整理して
タイトルやラベルを付ける そうしてはじめて「問題」は「存在」する。
そうでなければ あってもないのと同じことなんだ

注目がなければ いてもいないのと同じ、というのに これも似てるね
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by majalis_k | 2011-06-19 13:37 | 小さな家での小さなつぶやき