東京閑〜とん☆ちん☆かん〜日記

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愚痴です

婚家のある町の駅前が、ここ数年で急激に整備された。

もともと古い城下町で道が狭く、入り組んでいるのに加え
田舎ほど車社会が進むという例に漏れず
郊外のショッピングセンターに客を取られた駅前商店街が
行政を巻き込んで本腰を入れたのだろう。
大きな市営駐車場がつくられ、民間の駐車場もびっくりするほどたくさんできた。

いままでちょっとくらいなら停めておけそうだったスペースは
取り締まりが強化されるか、つぶされるかしてなくなった。

そんなわけで、昔から住んでいる義父母のような人たちにとっては
ごく最近の変化であり。ちょっと車を停めるくらいでお金をとられるなんて
受け入れがたいという心情もわからなくもない。
(実際広々とした駐車場は、ガラガラと言っていいほど空きが目立っていた)

だけどね この前帰省した時に家族で食事に行ったんだけど
そのガラガラの駐車場の目の前に、お目当ての店があってね。
お店の駐車場は2台分くらいしかスペースがなくて、
1台分はお店の車が停まってた。
車庫入れの下手なオットがもたもたしているうちに
スッと軽自動車が入ってきて、ハイ終了

じゃあしかたないから、目の前の空いてる駐車場に
入れればいいんじゃない? って私なんかは思うんだけど
もうどうする?どうする?って大騒ぎのオット親子。 はぁ

正直 お金を払いたくないがためだけに 車でウロウロしたりするの
アタシ嫌いなんだよね、なんかセコくて。もううんざりしちゃって
そこに停めれば?っていったら ごちゃごちゃうるさいとか言いかえされて
くっだらないことで夫婦喧嘩に発展ww
東京じゃないんだから ここではうちの流儀にあわせろ、だって
(そんなの 流儀とかご大層なものとは思えないけどwww)

観光地のぼったくり駐車場の値段なんかはさすがに腹立つけど、
公営駐車場なんだから、たいした金額じゃないし。

老後資金が心配なのはわかるけど 持ち家で余裕ゼロという生活じゃなし
年金もらうだけもらって、地元にお金を落とさないってのも正直どうかと思う

義父母すごくいい人たちだし 石女wのヨメである私にもよくしてくれるし
いままでがんばって生きてきたことに敬意は払うけど
ちょいとやりくり上手が過ぎるんじゃねーの? と思うこともしばしば。

節約家というだけならまだいいけど 義父なんてタダなら何でももらおうとするんだよね。。。
たとえば一緒に車のディーラーを数件回ったときには、行く先々で ポケットティッシュやら
うちわ、カレンダー、チラシ、わけわからないキャラクターのストラップまで、ありったけ。
帰るころにはポケットがパンパン。家はそんなものばかりであふれて、ゴチャゴチャ片付かない。
タダのお茶やお水は何度でもお代わり要求するし、テーブルにおいてある調味料は全部かける。
味なんて関係ないみたい(この前カツ丼にドレッシングかけてた。。。)ちょっと恥ずかしい

いくら家族が注意しても もう年も年だし、聞く耳持たないんだよね

居間の壁が見えないくらい カレンダーやら、動かないのも含めて時計がいくつもかけられて
不要品がいっぱいになるたび増設を繰り返した納屋が敷地を占領していた、前の家が
火事になって。。。家財はほとんど失ってしまったのに 半年経たないうちに
仮住まいのアパートの部屋は 火事の前の家と同じ状態にもどりつつある。
台所に立つ義母を手伝おうと思っても もうカオス過ぎてw
手がつけようもなく立ち尽くす、という状態に

あれだけドラスティックな事件があっても変わらないなら
この先も変わらないんだろうと思ったほうがいいよね
だからとうにあきらめてはいるんだけど ちょっとガス抜きに書かせてもらいましたw
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# by majalis_k | 2011-07-23 23:55 | 小さな家での小さなつぶやき

原発事故と節電

節電、やってますよ。
これを機に原発廃絶にもっていこうぜ♪という気持ちもあるけど
なにより我が家の家計に余裕がないからだ。
まずは自分の生活が立ちいかなければ世のため人のためどころじゃない。

だけど、ホントは電力は余ってて 政府や東電はウソをついてる。
マスコミもウソと知っていてもそのことは言わない。
(祭りが続きさえすればどっちだっていいんだ。風向き次第でどっちにもつく)
逼迫感を煽って「ほらねみなさん やっぱり原発なしじゃ足りないんですよ」てな方向に
世論を持っていこうとしている。…と怒ってる人たちもいる

それはたぶんそうなんだろう。と私も思う。
原発は電力のために必要なんじゃない。政治のために必要だったんだろう。

やれ97%だ、ギリギリだと煽りながら
実はまだ200万キロワット以上の余力を残しているというが
それもまたその通りなんだろう。たぶん

だけど では 私たちはどうするのがいいのだろう?

権力側のウソを糾弾し続けても 彼らは態度を変えることはないだろう。
見え見えのウソでも、シラを切り通す術には奴ら長けている。
忘れっぽい日本人のことだから 頭を低くして嵐をやり過ごせばいいだけ
時が過ぎるのを待てばいいだけ

では だまされているんだ、どうせ電気は余っているんだ、と
やせ我慢なんぞすることぁない、と 今まで通りに電気を使う生活に
とっとと戻るべきなのか? と言えば それも否だよね

ここで目的を考える。手段は目的によって変わるからだ。

目的は原発要らなくない?という意見にリアリティを持たせること、であって
そのための手段として、政府や東電の発言のアゲ足をとることは
全く意味がないとはいわないが、馬耳東風のようなもので
効果が高いとはいい難い

ウソだろうがサバを読んでいようが とにかく
いままでよりも原発の発電量のぶん、少ない電力でやり通すことだけが
原発にNOを突きつけられる唯一の方法だと思う。
相手の読みのさらに上手を行くしかないんだと思う

だから お偉いさん方の言うことが ウソだろうとなんだろうと
そんなの関係ねぇ(って もう古いねw)やるべきことは変わらない。
どっちみち「節電」が答えだ。 だまされてやるわけじゃない。
それしかないと、自分が信じてるから

もちろん強迫的に電気のスイッチを消して回ることはしないよ。
健康を害したり、仕事の効率を下げるほどのやせ我慢もしない。
使用が集中する時間帯をさける、とか
ダラダラ無自覚につけっぱなしではなく
この気温、この湿度ならとりあえず1時間だけ、とか
毎度異なる状況をちゃんと読んで決めて、タイマー利用するなど。
電気はもう使わない、とは言えない。 都市で暮らす以上
そういう生活には戻れないから、できるだけ。でもね

足りないって推進派がいうのは、ピーク時を問題にしているわけであって
平均化されれば総量としては足りるはずだから。

もっといえば、しょっちゅう停電するのが常態なら
半ば強制的に みんながそれに備えるようになるでしょ
電気の使い方、工夫するようになるでしょ
…それでいいんじゃない?

あと何年でそうなるよーって計画さえ示してもらえれば、
医療機関なんかでも準備できるでしょ?
途切れなく供給されるのが当たり前、なんて
むしろ他力本願過ぎたんだよ。お人好し過ぎ、お上を過信し過ぎ。
だから何かあるとすぐ人のせいにしちゃうんだ。
最悪の事態には自力で備えておかなきゃ。

いままで人任せでよく安心しきっていられたなー…なんて
いまとなっては自分の甘さにもぞっとする思いだ
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# by majalis_k | 2011-07-03 01:22 | 小さな家での小さなつぶやき

みんな?かつて?

高橋源一郎さんのツイートをフォローしているんですが
昨夜は堀江敏幸さんの『なずな』という小説を読まれ感じられたことを
つぶやいていらっしゃいました。

その小説というのは、独身男性である「私」が
生まれたばかりの、弟夫婦の娘「なずな」を育てることになり
育てながら少しずつ変わっていく「私」の思いが描かれた小説だと言うことですが、
私自身はまだ読んだことはありません。

高橋さんのツイートはこんな風に締めくくられています

「(前略)…ぼくもまた、一日中、子どもを見つめている。
そんなに熱心に他人を見ることは、ほかにはない。
おそらく、恋愛がもっとも燃え上がっている時の恋人を見る時以外に、
そんな風に見ることはないだろう。
そのような視線だけが「いること」を確認できるのである。

だが、とぼくは思う。ぼくたちは、みんな、かつて、
その視線で見つめられた経験があるのだ。
ずっと昔、親たちは、ぼくたちを、
「こんなにも だいじに まもられている」ものとして、
激しく見つめてくれていたのである。
自分よりもずっと大切な、唯一の存在として。」

…みんな?かつて?

そうかなぁ? そうだったのかなぁ?

私自身は、正直あまりそんな風には感じられなかったし、
いまも感じられずにいる。

週休2日なんて海の向こうのお話だった時代
あんなに働いてたのに さして裕福でもなく、
3人の子どもを抱えて 大変だったんだろうな…

大人になって、そういう生活の苦労みたいなものに関しては
理解や同情もできるようになったし 育ててくれたことに感謝もしている

だけど あの時代 子どもが当たり前にたくさんいた時代
鍵っ子、なんて言葉が流行語のように言われていた時代
狭い家の中では すぐジャマにされて
「外に行って遊んでなさい!」と言われるような時代に
1日中、子どもをそんな視線で見ていられる余裕のある親が
一体どれだけいただろう? と 私なんかは思ってしまうのだ

お父さんが銀行員や公務員で お母さんが専業主婦で
畑とヤブばかりのウチの周りなんかよりは
ちょっと品のいい住宅街に庭つきの家と自家用車があって、
子どもにはそれぞれ個室が与えられている
遊びにいくとお母さんがお菓子と紅茶を出してくれる
そんな家庭だけなんじゃないのか?

それともそんなことは関係なく
我が家固有の問題だったんだろうか?
私個人の感受性の問題だろうか? それは中年になったいまもわからない

すぐ上の年子の兄が手がかかり 赤ん坊の私にいたずらもするので
私は押し入れの布団の上や、2段ベッドの上に寝かされていたという。
 気がついたら大きくなってたのよ、この子は。
いつか母がオットにそんなことを言うのを聞いたことがある。
 泣きもせず 目だけぎょろぎょろさせて

そうだなぁ そうかも知れない
いっぱいいっぱいに見える大人たちを前に
誰のジャマにもならないよう
ひっそりと生きるクセみたいなものはついた
いるのかいないのかわからない、とよく言われたし
いまも時々言われる 「あ、びっくりした いたの?」

誰からも見つめられず 自分がどんどん透明になっていくような気がした


まあそれはそれで 誰かに迷惑かけるわけじゃなし
気楽でいいやと思えなくもない ただ

不妊治療してまで 子どもという存在を得ようとしたのは
自分もかつてこのように 愛されていたと、身で心で 実感したかったんだろうと思う。

だけど 得たら得たで、子どもを愛せない自分に悩む親になっていたかもしれない。
結局自分が育てられたようにしか、子どもも育てられない そんな説もあるし。

ネグレクトとか虐待とか ワーキングプアとか
最近の問題みたいに言われてるけど 昔からそこらじゅうであったと思う
当事者が 自分たちの状況を理解したり 説明する言葉や概念を持たなかっただけの話なんだ

たとえば 父は直接的には過労で死んだと、私たち家族は思っているけど
私が子どもだったあの当時 過労死なんて言葉はなかった

そこら中に蔓延している混沌から 誰かが抜き出して整理して
タイトルやラベルを付ける そうしてはじめて「問題」は「存在」する。
そうでなければ あってもないのと同じことなんだ

注目がなければ いてもいないのと同じ、というのに これも似てるね
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# by majalis_k | 2011-06-19 13:37 | 小さな家での小さなつぶやき